糖尿病性腎症の典型症例

[医師解説]
糖尿病性腎症の典型症例:「足のむくみ」で悩まれたAさんの診断と治療経過

専門医が典型例で解説

ページ更新日:2025.9.1

この記事では、腎臓内科医の立場から、糖尿病の重大な合併症の一つである「糖尿病性腎症」の典型的な症例をご紹介します。働き盛りの50代男性Aさんが、どのような経緯で受診し、診断を受け、治療によって生活の質(QOL)を取り戻していったのか。そのプロセスを具体的に解説することで、同様の悩みを持つ方やそのご家族の理解を深める一助となれば幸いです。

症例紹介

  • 患者: 50代、男性(Aさん・仮名)
  • 主訴:
    数ヶ月前から続く両足のむくみと、強い倦怠感
  • 既往歴:
    10年前に2型糖尿病と診断。高血圧も指摘されていたが、仕事の多忙を理由に治療を中断していた時期がある。

具体的な症状と現病歴

Aさんは、ご自身の体の変化に不安を感じ、当院の専門外来を受診されました。問診では、以下のようなお話を伺いました。

  • 数ヶ月前から、夕方になると靴下の跡がはっきりと残るようになり、最近は朝になってもむくみがひどい状態だった。
  • 以前は感じなかった、全身のだるさが取れない状態が続き、仕事の集中力も低下していた。
  • 数年前の健康診断で尿蛋白を指摘されたが、自覚症状がなかったため放置してしまっていた。「もっと早く治療しておけばよかった」と後悔の念を口にされていた。
  • 将来的に透析が必要になる可能性への強い恐怖があり、「透析だけは避けたい」という切実な思いを持っていた。
  • 家族に迷惑をかけたくない」という気持ちが、今回、専門医を受診する大きな動機になったと話された。 糖尿病の他の合併症(網膜症や神経障害)についても漠然とした不安があり、「合併症が怖い」と訴えていた。

診断アプローチと臨床的思考

Aさんの訴えと既往歴から、私は糖尿病性腎症を強く疑いましたが、正確な診断のためには他の疾患を除外する必要がありました。

鑑別診断

まず、むくみの原因となる心不全や肝硬変、甲状腺機能低下症などを念頭に置きました。しかし、診察での心音や呼吸音に異常はなく、血液検査でも肝機能や甲状腺ホルモンの値は正常範囲内でした。10年以上の糖尿病罹病歴と治療中断の時期があったことを踏まえ、診断の焦点を糖尿病性腎症に絞りました。

検査所見

客観的な評価のために、以下の検査を実施しました。

  • 尿検査:
    尿蛋白が強陽性(+++)であり、腎臓から多くのタンパク質が漏れ出している状態(顕性蛋白尿)でした。より詳細な尿中タンパク/クレアチニン比も高値を示しました。
  • 血液検査:
    • eGFR(推算糸球体濾過量): 42 mL/min/1.73m² と、正常値(90以上)を大きく下回っており、腎機能が中等度まで低下していることが判明しました。
    • 血清クレアチニン値: 腎機能の低下を反映し、基準値を超える上昇が見られました。
    • HbA1c(ヘモグロビン A1c): 8.6%と高値であり、過去数ヶ月間の血糖コントロールが極めて不良であったことを示唆していました。

最終診断

以上の所見、すなわち「長期の糖尿病歴」「持続性蛋白尿(A3)」「eGFRの中等度低下(G3a)」から、日本腎臓学会の病期分類(2023)に基づき、Aさんを「糖尿病性腎症 第3期(顕性腎症期)」と診断しました。典型的な臨床経過であったため、この時点での腎生検(腎臓の組織を採取する検査)は必須ではないと判断しました。

治療方針と経過

診断結果をAさんに丁寧に説明し、今後の治療計画を共有しました。

患者への説明

まず、eGFRの数値や病期分類の図を用いて、現在の腎臓の状態を客観的に理解してもらいました。そして最も重要なこととして、「確かに腎機能は低下しており、放置すれば透析に至るリスクは高いですが、今から適切な治療を開始すれば、腎機能の低下速度を緩やかにし、透析を回避できる可能性は十分にあります」とお伝えし、過度な不安を取り除くよう努めました。「透析だけは避けたい」というAさんの強い意志を尊重し、医師、管理栄養士、そして患者さん自身がチームとなって治療に取り組む目標を設定しました。

薬物療法

腎臓を保護し、病気の進行を抑えることを最優先に、以下の薬物療法を開始しました。

  • 血圧管理・腎保護:
    尿蛋白を減少させ、腎臓への負担を軽減する目的で「ARB(アンジオテンシンII受容体拮抗薬)」を開始。
  • 血糖管理・腎保護:
    血糖コントロールを改善させると同時に、心臓や腎臓を保護する効果が示されている「SGLT2阻害薬」を導入。

生活指導

薬物療法と並行して、生活習慣の改善、特に食事療法が極めて重要であることを説明しました。

  • 食事療法:
    管理栄養士と連携し、具体的な指導を行いました。
  • 減塩:
    腎臓への負担を減らすため、1日の塩分摂取量を6g未満に設定。だしや香辛料の活用法など、無理なく続けられる工夫をアドバイスしました。
  • タンパク質制限:
    Aさんの病期に合わせて、過剰なタンパク質摂取を控えるよう指導。これにより、腎臓内の老廃物の産生を抑えます。Aさんは当初、「食事の楽しみがない」と落胆されていましたが、管理栄養士から具体的な献立例や調理法の指導を受け、前向きに取り組むことができるようになりました。
  • 運動療法:
    息切れしない程度のウォーキングなどの有酸素運動を1日30分程度、週3〜5日行うことを推奨しました。

経過観察

治療開始後、Aさんは熱心に治療に取り組み、定期的に通院されました。

3ヶ月後には、あれほど高かった血圧とHbA1cが目標範囲内に改善しました。

尿蛋白の量が明らかに減少し、eGFRの低下速度も緩やかになりました。

患者さんは検査結果を見るたびに「数値に一喜一憂する」こともありましたが、それがかえって治療継続のモチベーションに繋がりました。

何より、あれほど辛そうだったむくみ倦怠感が大幅に軽減し、「体が軽くなり、仕事にも意欲が戻ってきた」と笑顔で話してくださるようになったのが、我々医療者にとっても大きな喜びでした。

専門医からの考察とアドバイス

Aさんの症例は、糖尿病性腎症の診療において非常に重要な教訓を含んでいます。

第一に、糖尿病性腎症は初期には自覚症状がほとんどない「静かなる病気」であるという点です。Aさんのように、むくみや倦怠感といったはっきりした症状が出た時点では、病期がある程度進行してしまっているケースが少なくありません。健康診断で「尿蛋白陽性」や「腎機能低下」を指摘されたら、症状がなくても絶対に放置せず、速やかに専門医を受診してください。

第二に、自己判断による治療中断の危険性です。仕事が忙しいなどの理由で通院が途絶えると、その間に病状は静かに、しかし着実に進行します。「もっと早く治療しておけばよかった」という後悔をしないためにも、継続的な血糖・血圧管理が不可欠です。

最後に、Aさんのように病期がある程度進行していても、決して諦める必要はないということです。現代の治療、特にSGLT2阻害薬などの新しい薬剤と、適切な食事療法・生活習慣の改善を組み合わせることで、腎機能の悪化を大幅に遅らせることが可能になっています。

まとめ

今回は、糖尿病性腎症の典型的な症例として、50代男性Aさんの診断から治療経過までを解説しました。Aさんは、むくみや倦怠感をきっかけに受診し、「顕性腎症期」と診断されましたが、専門家チームによる集学的な治療に真摯に取り組んだ結果、症状を改善させ、透析導入を回避するための道を力強く歩み始められました。

糖尿病と診断されている方、あるいは健康診断で腎臓に関する異常を指摘された方は、この症例を他人事と考えず、ぜひ一度、かかりつけ医や専門の医療機関にご相談ください。早期の対応が、あなたの腎臓、そして未来の生活を守ることに繋がります。

免責事項:
本記事で取り上げた症例は、典型例を基に個人が特定されないよう変更を加えたフィクションです。記載の内容はすべての患者に当てはまるわけではなく、一般的な情報提供を目的としています。本記事は医学的助言の提供ではありません。ご自身の症状や治療については、必ず専門の医療機関にご相談ください。

文責
東大阪病院 透析室 センター長
三上 典子