
鼠径ヘルニアの典型症例
[医師解説]
鼠径ヘルニアの典型症例:足の付け根の不調で悩まれたAさんの診断と治療経過
ページ更新日:2025.9.1
この記事では、外科の日常診療で非常に多くみられる「鼠径(そけい)ヘルニア」、いわゆる「脱腸」について、典型的な患者さんの症例を通じて、専門医がどのように診断し、治療を進めていくのかを具体的に解説します。ご自身の症状と照らし合わせながら、鼠径ヘルニアへの理解を深める一助となれば幸いです。
症例紹介
- 患者: 60代、男性(Aさん・仮名)
- 主訴:
半年ほど前から続く、右足の付け根の膨らみと違和感 - 既往歴:
高血圧で内服治療中。10年前に禁煙。職業柄、重い荷物を持つ機会が多い。
具体的な症状と現病歴
Aさんは、半年ほど前から右の鼠径部(足の付け根)にピンポン玉くらいの膨らみがあることに気づきました。特に、立ち仕事をしていたり、重い荷物を持ったりしてお腹に力を入れると膨らむのがはっきりと分かり、横になって休むと自然に引っ込むという状態でした。
受診に至るまでの経緯と症状は以下の通りです。
- 当初、痛みはないけど違和感がある程度で、「そのうち治るだろう」と考えて様子を見ていました。
- しかし、徐々に膨らみが大きくなり、咳や排便時など、日常の些細な動作でも出てくるようになりました。特に、くしゃみが出そうになると無意識にお腹を押さえるようになり、くしゃみや咳をするのが怖いと感じていました。
- ご自身で病気について調べるうちに、腸が詰まって緊急手術が必要になる「嵌頓(かんとん)」という状態があることを知り、「いつか自分もそうなるのではないか」と嵌頓が怖くて生活が怖いという不安を抱えるようになりました。
このまま放置していても解決しないと考え、根本的な治療を求めて私の外来を受診されました。Aさんは「もっと早く相談すればよかった。手術を決心するまで時間がかかった」と話しておられました。
診断アプローチと臨床的思考
Aさんのような症状で来院された場合、我々医師は以下のような思考プロセスで診断を進めていきます。
鑑別診断
まず、鼠径部の膨らみを引き起こす他の病気の可能性を考えます。
- リンパ節の腫れ:
感染症や他の疾患でリンパ節が腫れることがあります。しかし、この場合、膨らみは持続的で、硬いことが多いです。 - 精索静脈瘤や陰嚢水腫:
陰嚢(いんのう)まで及ぶ腫れが特徴ですが、鼠径ヘルニアとの鑑別が必要な場合があります。 - その他:
血管の病気(動脈瘤)や腫瘍なども稀に考えられます。
Aさんの場合、立っているときに出現し、横になると消える(還納される)という典型的な病歴から、鼠径ヘルニアの可能性が最も高いと判断しました。
検査所見
問診と視診・触診でほぼ診断はつきますが、客観的な評価のために検査を行います。
- 視診・触診:
立った状態で咳をしてもらったり、お腹に力を入れてもらったりすると、右の鼠径部に柔らかい膨らみが現れることを確認しました。指で圧迫すると、腹腔内に引っ込む(還納される)ことも確認できました。これが鼠径ヘルニアの典型的な所見です。 - 超音波(エコー)検査:
鼠径部に超音波の機械をあてて内部を観察します。Aさんの場合、腹壁の筋肉に「ヘルニア門」と呼ばれる穴が開いており、そこから腸管(小腸)の一部が脱出している様子が明確に確認できました。
最終診断
以上の問診、身体所見、および超音波検査の結果を総合的に判断し、「右鼠径ヘルニア」と最終診断しました。
治療方針と経過
診断後、Aさんに病状と治療方針について詳しく説明しました。
患者への説明
鼠径ヘルニアは、薬や生活習慣の改善だけで治ることはなく、根治的な治療は手術のみであることを伝えました。
放置した場合、嵌頓のリスクが常に伴うことを説明し、不安を煽りすぎないようにしつつも、計画的な手術の重要性を理解していただきました。
一方で、適切に手術を行えば根治が可能であり、現在のAさんの状態は緊急を要するものではないことを説明し、まずは安心してもらいました。
薬物療法
鼠径ヘルニアに対する薬物療法はありません。ヘルニアバンド(脱腸帯)は、一時的に膨らみを押さえる対症療法に過ぎず、根本的な解決にはならないため、推奨しませんでした。
手術と生活指導
Aさんは、仕事への早期復帰と体への負担が少ない治療を希望されたため、「腹腔鏡下鼠径ヘルニア修復術」を選択しました。これは、お腹に数ヶ所の小さな穴を開け、そこからカメラと器具を挿入し、内側からヘルニアの穴をメッシュ(人工のシート)で塞ぐ方法です。
手術は全身麻酔下で約1時間半で終了しました。手術翌日から歩行や食事も可能となり、痛みも鎮痛薬で十分にコントロールできました。術後2日で退院され、デスクワークであれば1週間程度、重い物を持つ作業は1ヶ月ほど控えてもらうよう指導しました。
経過観察
退院後の外来では、創部の状態も良好で、感染などの合併症は見られませんでした。Aさんが気にされていた手術後のつっぱり感が気になるという点については、術後しばらくは誰にでも起こりうる症状であり、時間とともに軽快していくことを説明しました。
手術から3ヶ月が経つ頃には、つっぱり感もほとんどなくなり、日常生活での制限はなくなりました。Aさんは、「あれほど悩んでいた足の付け根の膨らみがなくなり、咳やくしゃみを気にせずできるようになった。もっと早く手術すればよかったと心から思う」と、QOL(生活の質)が大きく改善したことを喜んでおられました。
専門医からの考察とアドバイス
Aさんの症例は、鼠径ヘルニアの非常に典型的な経過です。この症例から、同様の症状を持つ方々にお伝えしたいことがいくつかあります。
- 「痛みがないから大丈夫」は誤解です:
鼠径ヘルニアの初期は、Aさんのように痛みを伴わないことがほとんどです。しかし、痛みがないからといって安全なわけではありません。むしろ、突然の激痛は嵌頓のサインであり、そうなると緊急手術が必要になります。違和感や膨らみに気づいた時点で、一度専門医に相談することが重要です。 - 腹筋運動でヘルニアは治りません:
「筋肉を鍛えれば穴が塞がるのでは?」と考える方がいますが、これは逆効果です。不適切な腹筋運動は腹圧を高め、かえってヘルニアを悪化させる可能性があります。自己判断でのトレーニングは避けてください。 - 早期受診のメリット:
嵌頓を起こす前に計画的に手術を行うことで、体への負担が少なく、安全性の高い治療(特に腹腔鏡手術など)を選択しやすくなります。
鼠径部の膨らみは、デリケートな部位であるため、受診をためらう方も少なくありません。しかし、鼠径ヘルニアは非常にありふれた病気であり、適切な治療で生活の質を大きく改善させることができます。
まとめ
鼠径ヘルニアは、特に中高年の男性に多く見られる疾患で、足の付け根の膨らみや違和感が主な症状です。自然に治ることはなく、放置すると「嵌頓」という危険な状態に陥る可能性があるため、手術による治療が基本となります。
Aさんのように、診断と治療が適切に行われれば、不安のない快適な日常生活を取り戻すことが可能です。もし、立ち上がったり、お腹に力を入れたりした際に足の付け根に膨らみを感じる場合は、自己判断で様子を見ずに、お近くの外科や消化器外科の専門医にご相談ください。
免責事項:
本記事で取り上げた症例は、典型例を基に個人が特定されないよう変更を加えたフィクションです。記載の内容はすべての患者に当てはまるわけではなく、一般的な情報提供を目的としています。本記事は医学的助言の提供ではありません。ご自身の症状や治療については、必ず医療機関にご相談ください。